不意に体がぐらりとゆれて、俺は目を開けた。揺れは続いている。地震かと思って身を固くしたけれどそれとは違うとすぐに気付いた。波に乗るような緩やかな揺れがリズムを刻むように体を掬っている。 ―――波。 『どうした?まだ寝ぼけているのか?』 重低音の落ち着いた声。聞いた事の無い声。 『少し表の風に当たったらどうだ、長い船旅で疲れたろう』 それが自分に向けられていると気付くまで僅かに時間が必要だった。そしてその言葉の意味を理解するのに、もう数秒。 弾かれるように身を起こすと、木の板で出来た壁が目に入った。視線を巡らす。木造建築の古いアパートのような、狭い部屋だ。部屋の隅に同じ木材の小さなテーブルと、椅子。そしてその椅子に窮屈そうに腰掛けた、がたいの良い男。 使い込んだ跡の目立つ皮製と思しき粗末な着衣を身に着けて切りっ放したような髪を後ろでひとつに纏めている。男は、体躯にそぐわないほどのやさしい眼差しで俺を見つめて、言う。 『疲れが取れないようならまだ休んでいてもいいぞ。船が着いたら起こしてやるから』 一瞬思考が混乱する。勿論、俺はこんな部屋で眠りについた記憶も、船に乗った記憶さえもない。 それならここはどこか。この男は誰か。俺はここで一体何をしているのか。 夢うつつで聞いたあのメロディがよみがえる。名前を決めてください。あの声。 頭を振る。そうだ夢の続きだろう。ならば早く覚めればいいのに。 額に当てた手の違和感に、俺はまたはっとして自分の掌に目を落とした。 小さい。 体をそろそろと動かして、床に下りる。低い。見たことのない部屋、だけどそれくらいの感覚は残っているはずだ。ベッドの縁に座り込んでも、足がつかない。床に足をつくと、ベッドが腰の高さに、通常なら考えられない高さにある。 おぼつかない足で一歩、二歩と歩を進める。体が上手く動かせない。まるで自分の体ではないように。 『やっと目が覚めたのか?そんなところにいないでこっちに座ったらどうだ』 さっきの男が穏やかな口調で語りかける。座っているはずの男の表情が顔を上げないと見えない高さにある。 肩にかかる違和感に顔を傾け手を当てると、紫色のマントと伸びきった黒い髪が自分の頬に触れた。 ―――ドラクエ。5だ。幼少期、始まりの船だ。 髪の毛も払わず頬をつねる。夢か現実かを確かめるために、今、他に方法が思いつかなかった。じわりとした痛みが頬に広がる。 納得のいく回答を導き出すには今のところ一本の道しかなかった。理屈では、只ひとつだ。けれど理屈というなら、それは一番納得のいかない、理解できない答えだった。 『なにをしてる?来ないならこっちから行くぞ?』 のしりとした大きな体をおもむろに動かして、男が俺の元に歩いてくる。恐ろしいまでに聳え立った男の体から太い腕が二本、俺の両脇を捉えた。軽く肩の高さまで持ち上げられる。普段より更に高い位置の目線。その双眸をくしゃりと崩して、 『父さんな、この旅が終わったら少し、落ち着こうと思ってるんだ。あそこは小さいが良い村だ。早くお前にも見せてやりたいな』 そう言うと男は、ゆっくりと俺に負担がかからないように床に下ろし一度だけ俺の頭に手を乗せると、のしりとまた椅子に腰を下ろした。 父さん。・・・パパス。 理解と同時にゲームでの悲しい別れが脳裏に浮かび、目が潤む。額の間が引きつるように痛み、俺は瞬きをして涙腺を押さえ込んだ。パパス。やっぱりそうだ。ドラクエだ。じゃあ、やっぱりこれは夢か。だって現実ではありえない、悪い夢としか説明がつかない。 ゲーム脳ってやつかな。相当やられてるっぽい。しかしそれならそれで、夢を楽しんじゃえばいいんじゃねーの?こんな夢、見たことないよ、俺。 開き直りに似た気持ちで俺はパパスに声を掛けた。 「パ・・・っと、父さん」 『ん?どうした?』 テーブルの角のため死角になっていたが、パパスは読書をしているようだった。ぱら、とページを繰る小さな音が狭い船室に響く。 「俺、外見てくるよ」 『うん・・・ん?お前いつからそんな大人びた口をきくようになったんだ?』 穏やかな顔はそのままに、少し意表を突かれた色を瞳に映して、パパスが顔を上げる。 「あ、その辺の本に書いてあったよ?じゃあ僕行ってくるね」 努めて子供らしい口調で言った途端、しまった、幼少期主人公は文字読めないじゃんと気付いて突っ込まれないうちにと俺は慌てて階段を駆け上がった。 木の扉を開けると外は快晴だった。明かりが差すとはいえ室内にいた俺の目に 鮮やかな太陽の色が映る。反射的に目を閉じても、瞼を通して容赦ない光が眼球を刺すのがわかった。 手を庇代わりに額に当てて目が慣れるまでをやり過ごす。波は穏やかに船体を揺らし続けている。 『よう、ぼうず。今ごろ起きたのか』 頭の上から降ってきた声に目をやると、丁度逆光に紛れて真っ黒く、舵を掴む男の影が見えた。男からも見えるように大きく頷く。今度は背後から 『ぼうずのうちは寝るのが仕事だもんな』 がっはっは、と同じような背格好をした男が大きな笑い声を上げる。 船員だ。白いシャツを邪魔臭そうに肩までたくし上げ、頭には明るいオレンジ色のバンダナを巻いている。 『父さんはまだ部屋かい?ぼうず一人で迷子になるなよ』 からかうように舵の船員が笑う。 そこまでバカじゃねーよ、と心の中で毒づきながら改めて甲板を見渡すと、船室と同じ大きく組まれた木造の船の向こう側に透き通るような青い空と、真っ白くそれを反射した波が見えた。 陸地らしきものはまだ見えない。ただただ広がる青と、輝く白。 現実でだってこんな鮮やかな色の景色は見たことなかったな。俺は少しだけその景色に見とれた後、くるりと踵を返した。 とことこと小走りに船の上を駆け回る。急ぐ必要はないのだろうけれど、幼児の歩く速度は実際は既に成人している俺には気が遠くなるほどまどろっこしいものだった。しかもすぐに汗が噴出し、息が上がる。 声を掛けてくる船員を適当にかわしながら船倉に潜り込むと、案の定大きな樽が幾つも整然と並べられ、その奥には宝箱・・・というよりはただの荷物箱のように見えたけど・・・が幾つも並べられてあった。樽を覗き込むがしっかりと封がしてあって開くことが出来ない。中はいっぱいに何か詰まっているらしく、持ち上げて割るなんてことも出来そうになかった。 なんじゃこりゃ、約束が違うじゃねーかよ。 ぶつぶつと文句を言いながら幾つかの樽を覗き込む。そのうちのひとつ、縄で縛られた隙間に何か挟まっているのが見えた。破らないように引き抜くと何かのチケットのようだ。 やっと見つけた獲物を大事に腰袋にしまいこみ、更に俺は船倉の探索を進めた。 宝箱は厳重に施錠されてひとつとして開かなかったけれど、別の樽の隙間から小さな袋に入ったお茶の葉のようなものを見つけた。きっとこれが薬草だろうと思い、甲板にあった樽も入念にチェックし、結果何枚かのチケットと薬草を見つけた。 外の探索が終わって、少し休もうと扉を開けると元の船室よりわずかに高価そうな装飾が目に飛び込んだ。手前に小奇麗なテーブルと椅子のセットが置かれ、初老の紳士風の男と中年太りの皺の目立つ男が親しそうに話し込んでいる。 扉の閉まる音に紳士風の男が顔を上げ、 『やあ、ぼうや。ひとりかい?』 と微笑んだ。口にくわえたパイプから白く煙が立ち上がる。 ああ、船長だな、と俺は理解した。明らかに船員とは趣の違った真っ白な制服に帽子を頭に乗せてゆったりと椅子に腰掛けてこちらを見ている。 『ぼうやはお父さんと旅をしているんだよ。な?』 もう一人のほうに目をやりながら笑顔を崩さずに、船長が続ける。 『この子の父さんには世話になってるんでね、今回は特別ってことで同乗してもらってるんだ』 ああ、と頷きながらもう一人が俺に笑顔を投げてよこす。愛想笑いでやり過ごして、俺はテーブルの横をすり抜けて奥へ向かった。背中から、かわいいねえ、と男がつぶやくのが聞こえた。 奥の本棚にはぎっしりと本が詰め込まれている。何冊か手に取ってみたが、内容はさっぱり何がなんだかわからなかった。流石に日本語で書いておいてくれるほど親切な世界ではないようだ。喋ってるのは日本語なのに、と腑に落ちない感を抱きながらも、改めて自分がこの世界には不釣合いな存在であるような気がしてくる。 更に奥には間仕切りの置かれたバスルーム。隙間から中を覗くと、下着一枚で鏡に向かって鼻歌交じりに髭を剃る船員の後姿が見えた。 こいつは憶えてる。逆に脅かしてやろうかと忍び足で背後に近付くと、鏡の向こうで男がにやりと笑うのが見えた。あ、やられた。 『がおーーーーーっっ!』 型通りの台詞に思わず表情が固まる。いまどきがおーはないよなあ。と込み上げる笑いを俯いて堪えていると、別の意味に取ったらしい男はにやにや笑いを隠さずに、 『おう、泣かなかったじゃねーか。やるな、ぼうず』 言いながらがしがしと俺の頭を撫でる。 堪えきれず噴出すと、一瞬きょとん、とした顔になった後男は、わっはっはと威勢よく笑いだした。つられて俺も笑い声を上げる。何事かと言う様に船長ともう一人の男が入り口から覗き込んでいるのが視界の端に見えた。 『ぼうずももう一人前だなあ』と もう一度頭を撫で回そうとする男を振り切って俺はまた甲板へ出た。休むつもりが飛んだ大騒ぎだ。けれど、なんだか気分が良かった。 誰も彼もがおおっぴらに感情を曝しておおっぴらに暮らしている。そう確信できた。俺の世界では、そんなオープンな人間なんていない。きっと滅多にいない。 青空と風を感じながら散歩がてら船長室と反対側の甲板に出ると、そこにはあからさまに高価そうな装飾の施された扉があり、扉の前にいた警備兵にあんまり近付くなと怒られた。 うろうろしていると甲板にいた船員に『ぼうずなにしてんだ?』と訝しげな目で見られたが気にせずやり過ごす。一通り船の探索を終えたところで海のずっと向こう側に、やっとわずかに陸地の影が見えた。 にわかに船上が慌ただしくなった。船長が部屋から出て眩しそうに目を細めて久し振りの陸地を見つめている。 足元にそっと立つと、 『ぼうや、そろそろ港に着くからお父さんを呼んでおいで』 さっきと変わりない優しい声色で俺に言った。眼差しの奥に僅かに寂しさが浮かんでいるのを、俺は気付いたけれどそのまま船長の傍を離れた。 船の到着を告げると、パパスは感慨深げにひとつ頷いて、二年ぶりだな、とその蓄えた髭の向こうで呟いた。大きな体を椅子から引き上げ数少ない荷物の点検に入る。 『お前も忘れ物をするんじゃないぞ。タンスの中も見ておいてくれ』 言われたとおりに引き出しを確認する。その中にも薬草と、見覚えのない小さな木の実の入った小袋があった。首をかしげた俺に気付いて、 『体を強くする種だ。それはお前にやるから、必要な時に使いなさい』 そう言い残すとパパスは、荷物袋を抱えて階段へ向かう。慌てて後を追い外に出ると、あんなに小さかった陸地はもうすぐそこまで迫っていた。青空に映える鮮やかな緑色の草原と、その向こう、青々と連なる低い山の輪郭、でこぼこと陰を落とす岩肌までがはっきりと見て取れる。 やがて船はゆるやかに速度を落とし、すべるように船着場に近付き、ぴたりと動きを止めた。船首から聞こえていた波を分ける音も止み、静かに自然の波に船体を踊らせている。 ほっとしたような、一息つくような空気が船員の中から立ち込め、それはパパスがタラップの方へ向かうと同時に別れを惜しむ空気に取って代わった。 『パパスさん、元気でな』 『ぼうず、男だったらもう泣くんじゃねえぞ』 あちこちから船員の歓声のような声と小さな拍手さえ聞こえてくる。その瞳に笑みを湛えたまま、パパスは船に向かって一礼した。 『船長、世話になったな』 『パパスさん、また乗ってくださいよ。いつでも、待っていますんで』 『うむ。またいつか、世話になる時は頼む』 名残惜しげに談笑するパパスと船長の並んだ向こう側。タラップの下から、別の大きな声が聞こえた。 『船長、ルドマン様のお着きですよ』 なんだ?という表情でパパスが船着場の方に視線を流す。その体の隙間から首を伸ばすように下を覗き込むと、品の良い高価そうな衣服を纏った恰幅の良い紳士が(これぞ紳士、って感じだ)片手を挙げて船長に合図を送った。 『ルドマン様!お待たせしました!・・・船の持ち主の方ですよ』 最後の台詞はパパスに向けて言い、頷くパパスの横、深々とお辞儀をした船長の頭の先から大儀そうに紳士が顔を出した。 『この船に、乗り込むときが一番大変ですなあ』 人当たりの良い笑顔を顔いっぱいに浮かべて紳士―ルドマンは失礼しますよ、と甲板に足を下ろす。船員の表情に走る緊張感が空気を伝って俺にも感じ取れた。 『久し振りの船旅ですわ。胃がやられなきゃいいけどねえ。船長、なるべく揺れないように頼むよ』 船長に向かって笑いかけるルドマンの後ろ、タラップの最後の一段を踏み越えられずに 父に助けを求めるようにひらひらと舞う小さな手を、ひょい、とパパスが抱えあげた。 『ちょっとお嬢さんには難しいようですな』 おやすいません、と振り向いたルドマンの前に、上等なワンピースを身につけた少女が足を着く。青色の鮮やかな細い髪が潮風になぞられてさらりと揺れる。 『すまんな。大丈夫かい』 問いかけにこくんと頷いて少女は父の上着に顔をうずめた。 『あ、ありがとう・・・』 顔を上げないまま言ったその声は俺の耳に辛うじて届く程度だったが、パパスはまた穏やかな、愛しそうな笑顔で少女に頷いた。 『それでは、私たちはこれで』 小さく片手を挙げてパパスは大きな足でタラップへと踏み出した。船員の別れの挨拶があちこちから重なり合って船着場にこだまする。動かすのがもどかしい小さな体をやっとの思いでタラップの上に下ろし、振り向かずに真っ直ぐ進むパパスの背中を追う。 最後にそっと振り向くと、動き出す船の上で不安げに顔を上げた少女のふたつの瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。