目を覚ますとその日は昨日までと様子が違っていた。
階下では複数の人間の話し声が聞こえる。
ストーリーが動き出していることを感じて、俺は体を起こした。

『やっと目を覚ましたのね』
小さな笑い声がして目線を落とす。
くすくすとブロンドを揺らしながらベッドの傍らに肘をついて
ビアンカが俺の顔を覗き込んでいた。
『サンってば、結構お寝坊なのね』

おはよう、と咄嗟に口に出すと
けらけらと笑いながらビアンカも挨拶を返してくる。
『パパのお薬が出来上がったの。残念だけど今日でさよならだわ。
ママとご挨拶に来たのよ。あたしの家にも遊びに来てちょうだいね』
寂しさを誤魔化すためか早口に少女が言う。

大丈夫まだお別れじゃないよ、と
俺はビアンカに慰めを思った。
声には出さなかったけれど。

身支度を整えてビアンカと共に階下に下りると、パパスが顔を上げた。
『サン、やっと起きたのか。
おかみとビアンカは今日帰ってしまうそうだ』
声に対して、目一杯寂しそうな表情を作ってみせる。
おかみはその表情を微笑ましげに眺めている。

にっ、と髭の奥の口角を上げて、パパスは言った。
『女二人では危険だからな。
父さんはアルカパまで二人を送っていこうと思うんだが、
どうだ?お前も来るか?』

俺が頷くよりも先に、ビアンカが
『本当に?』と嬉しそうな声をあげた。
俺も顔を上げて「いいの?」と子供らしく尋ねる。

満足げに目を細めるとパパスは
『そうと決まれば早速出かけることにしよう。
サン、すぐに準備をして来なさい』
言いながら自分の荷物袋を抱え上げる。
俺は自分の装備を簡単に確認すると「大丈夫」と頷いた。

アルカパまでの道程は驚くほど順調だった。
殆どモンスターと遭遇することもなく
日が天頂を通り過ぎる頃には
町の入り口で警備兵と挨拶を交わすことが出来た。
ごくろうさん、とパパスが声を掛けると兵士は
どうぞ、と道を開けパパスの横顔に敬礼した。

アルカパの町は、サンタローズに比べて広々と賑やかだった。
入り口すぐには商店が並び、そこかしこから
買い物をする主婦の声や、
笑いあう子供達の声が聞こえてくる。

きょろきょろと辺りを見回していると
ビアンカが『賑やかでしょう?』と楽しそうに言った。

その町を一望する通りの真ん中
一際大きな建物を構えて佇んでいるのが
ビアンカの住む宿屋だった。

サンタローズにはない大きな建物にしばし見とれてみる。
大きな正面扉をくぐると
広々としたロビーには隅々まで手入れが行き届いており
趣向をあわせた品の良い装飾品が設えてあった。
天井には嫌味でない程度に豪華な
小ぶりのシャンデリアが柔らかな輝きを放っている。

フロントの右手には小さな扉があり
おかみは脇目も振らずに扉の奥へと消えていった。
後を追うビアンカに従ってパパスと俺もその扉をくぐる。

同時に『おかみさん!』という若い声が耳に届いた。
『お帰りなさい、遅かったですね。薬は手に入ったんでしょう?』
きっちりとした制服を着込んだ従業員らしき若い男が
頷くおかみに向かって笑顔を見せた。

『これでこの人も良くなると思うよ。
まったく世話が焼けるったら。手伝ってくれる?』
『はい!だんなさん、お薬ですよ。早く元気になってくださいよ』

応えるように間仕切りの奥のベッドの上で、
青白い顔をした年配の大男がのそりと身を起こした。
弱々しく微笑んだその男がダンカンだろう。
パパスも近付いて『大丈夫か?』と声を掛ける。

医療の知識が皆無な俺にもその様子が
あまり穏やかでないことが見て取れた。

手持ち無沙汰に歩き回っていたビアンカに
おかみが気付き、俺の顔を見る。

『サンちゃん、良かったらビアンカと遊んでらっしゃいよ』
『久し振りだろうから、散歩でもして来たらいい。ただし外には出るなよ』
パパスも振り向いてそう言う。俺は素直に従うことにした。

ビアンカと連れ立ってロビーへ出ると
正面扉へ向かおうとした俺をビアンカが引きとめた。
『おもしろいお話を聞かせてあげる』
と、悪戯っぽく笑みを含んだ瞳で俺の手を引く。

さっきの寝室の向かい側に、
こちらはそれより少しだけ豪華に彩られたもうひとつの扉があった。
その扉を開くと、手入れされた植物に囲まれた小さな中庭。
蔦の絡んだベンチのひとつに、艶やかなローブを身に纏った
女と見紛う程の美しい顔をした男がゆったりと腰掛けている。

『今日もやっぱりここに居たのね』
ビアンカが話しかけると
病的なまでに白い顔を上げて男が微笑んだ。
『ここが好きなんだ。落ち着くじゃない』
『ねえ、あのお話を聞かせてくれない?』
俺のほうをちらりと見ながら、ビアンカが言う。

男は、おもむろに俺の方に向き直るともう一度にこりと微笑む。
その真っ白な頬に僅かに赤みが差した。

『そうか、ぼうやにはまだ話したことがなかったかな』
ビアンカが笑いを堪えるように口元に手をやる。
男は、ひとつ咳払いをすると
大げさに身を乗り出して俺の目を見据えて、口を開いた。

『この町の少し北に、大きなお城があるのは知ってる?』
俺は知らない振りで首を横に振る。

『レヌール城と言うんだ。
昔、そのお城には逞しい王と、それは美しい王妃が住んでいた。
とても仲の良い夫婦だった。
だけど何故か二人には子供が出来ず、
いつしかその王家も途絶えてしまったんだ』

俺は小さく頷く。男の穏やかな顔が少しだけ真剣になる。
『ところが、ね。今となっては
誰も住んでいないはずのそのレヌール城から、
夜な夜なすすり泣くような、
物悲しい声が聞こえてくると言う・・・』

ぶる、と肩を震わせて、男は体を戻した。
『どうだい、恐ろしいだろう?』
くすくすと、堪えきれない笑いを漏らすビアンカの横で
俺は深刻な顔を作って頷いて見せた。男もそれに応えて頷くと、
『レヌール城には決して近付いてはいけないよ』
と言ってまたベンチに背中を預けた。

ロビーに戻り扉を閉めると
ビアンカがけらけらと笑い声を上げた。

『サンってば、真っ青になっちゃって。怖かったんでしょ』
否定も肯定もしないまま俺は正面扉へ向かった。
無言を肯定の意味に取ったらしく、
ビアンカは嬉しそうにまた笑って俺の横に立った。


表へ出ると、まだ高い太陽は
相変わらず眩しく世界を照らしていた。
一息ついて樽の探索を始めようと思ったところに
ビアンカが『案内してあげるわ』と俺の手を引く。

外の探索さえ、この町ではやりにくいのか。
本当に厄介だ。

ぶらぶらと道を行き
あそこが教会、あそこがお店、と
その度にビアンカが指をさし示して俺に教えてくれる。

道行く女性に挨拶をしながら「あっちは?」と俺が町外れの建物を指差すと、
『あそこは子供が入っちゃいけないお店』とビアンカに袖を引かれた。

町の中央には広場があり
ビアンカや俺と同じくらいの年恰好の子供達が駆け回っていた。
なんの事はないその風景に、ビアンカがぴたりと足を止める。

『あれって、何してるのかしら』
ビアンカに並んで目をやると、子供が二人
小さな生き物を追い回しては歓声を上げていた。
追いやってはその前に立ちはだかり
摘み上げては地面に投げ出す。

不意にビアンカが駆け出した。
『あんたたち、何やってるのよ!』
突然のビアンカの怒鳴り声に、二人の少年が足を止める。

乱暴に手に掴んでいた生き物が地面に転がり
体を震わせながらぐるる、と奇妙な唸り声を上げた。
頭に鮮やかな色の鬣を蓄えた小さな猫・・・
と言うよりは虎のように見える。

『なんだよ。またお前かよ』
背の低い方の少年が面倒くさそうに答える。
背の高い方がビアンカの顔を不服そうに睨んだ。

『やめなさいよ、かわいそうじゃない!』
怒りを含んだ声でビアンカが怒鳴る。
少年達が顔を見合わせて首を竦める。
母親と子供みたいだな、と俺は眺めながら思った。

『こいつ面白いんだぜ。変な声で鳴くんだ。
お前もやってみりゃいいじゃん』
背の低い方がまた言った。
高い方は猫だか虎だかとビアンカを
忙しなく見比べながら所在なさげに唇を尖らせる。

『だからってかわいそうじゃない。その子をあたしに渡しなさい』
少し落ち着いた様子で話すビアンカに
少年達はあからさまに嫌そうな表情を作り
『どうする?』とお互い目配せをした。

小さいほうがまた口を開く。
『まあ、虐めるのも飽きてきたし、別にやってもいいけどさ。
タダでやるのはなんか癪だからな』
『レヌール城は?』とそこで初めて、背の高い方が声を出した。
ああ、と言うように小さいほうが頷き、
『そうだな。レヌール城のお化けをやっつけたら、やってもいいぜ。交換条件だ』
とにやりと言った。背の高い方があわせるように笑う。

『バカじゃないの?そんなのこっちがいいって言うと思ってるの?』
ビアンカは威嚇するようにまた声を荒げたけれど
少年達はにやにやと笑顔を崩さないままで
『それならこいつは渡せないな。諦めろよ』と言った。

苛立たしげにビアンカは息を吐きながら
『わかったわよ!お化けを退治したらその子を渡すんだからね!約束よ!』
半ば吐き捨てるように言い、踵を返した。

広場を出るビアンカを追うと、怒りに満ちたその背中から
『ほんっと子供なんだから!』と呟く声が聞こえる。

『・・・ねえ、サン』
歩きながら呼びかけられ、俺は歩幅を広げてビアンカの隣に追いついた。
苛立ちと不安の織り交ざった表情でビアンカが足を止めずにこちらを見る。

『猫ちゃんを助けたいの。とっても勝手だって思うけど、
サンもお化け退治を手伝ってちょうだい。だめかな?』
申し訳なさそうに、けれど確固とした意思を宿して見つめる瞳に、
気圧される形で俺は頷いた。
ほっとしたようにビアンカの表情に笑顔が戻った。

複雑な面持ちのままのビアンカを促して宿に戻ると
パパスが帰り支度を始めるところだった。
待たせてすまないな、とパパスが俺に言う。

『ダンカンの容態も薬で落ち着いたようだ。そろそろ帰るとしよう』
椅子につこうとしたビアンカが一瞬、不安げな表情になった。
俺に向けられたその表情がお化け退治は?と訴える。
流れを知っている俺としては嫌にもどかしい一瞬が流れて
助け舟のようにおかみが口を開いた。

『あらやだ、パパス。今夜は泊まっておいきよ』
額から下ろしたばかりの白い布巾を片手に持ったまま
おかみはパパスの元へ歩み寄った。

もう片方の手で手際よく帳簿の確認をする。
従業員の男がおかみから布巾を受け取り、ダンカンのもとへ戻る。

『しかしサンチョを待たせているしな』
パパスは意外そうに、少し渋るように視線を空中に迷わせた。
『一晩くらい大丈夫でしょう。今から戻ったら日も暮れて危険だよ。
空き部屋でよければね、世話になった恩返しをさせてちょうだい』
『・・・うむ、そうか?ではお言葉に甘えるとするかな』

少し考えた後、パパスはやっと首を縦に振った。
おかみの顔と同時に、心配そうだったビアンカの表情も明るくなる。
『ああ良かった。すぐに食事の支度をするからね。
ビアンカ、お部屋までご案内してあげて』。

『はーい、ママ。サン、おじさま、こっちよ!』
おかみの持った宿帳を覗き込み、
ビアンカがぱたぱたと駆けるようにして扉を開いた。
促されるまま階段を上がり、三階のどう見ても一番立派であろう部屋に通される。

『こんな部屋を。もう少し安い部屋でもいいんだがな』
気後れするようにパパスが呟くと、ビアンカが
『いいのよ、どうせ今は暇なんだもの』
と笑った。

食事が出来たら呼ぶね、と言い置いてビアンカは階下へ戻っていく。
荷物を下ろしてパパスは
その広い部屋に感心したように頷きながらベッドに腰を下ろした。

『サン、明日は早めに出るぞ。食事を取ったら今夜はすぐに休もう』
こくりと頷くと、パパスは緊張を解くように大きく伸びをしてベッドに横たわった。

宿の食事は華やかで美味かった。
腹を満たして部屋に戻ると、パパスはすぐに横になりいびきを掻き始めた。

俺も柔らかなベッドに横になったが、
すぐには眠りにつくことはできなかった。
ベッドの感触が肌に慣れ、やっとうとうとしてきた所で
俺は小さな声に呼び起こされた。


『サン。サン、起きて』
目を開けると暗闇に
輝くようなブロンドと白い肌が浮き上がっていた。
一瞬ぎょっとして体をこわばらせた俺に、ビアンカは怒ったように
『やだ、サンってば寝ぼけてるの?お化け退治に行く約束よ!』
言いながら強引に俺をベッドから引きずり出す。

よろよろと起きだすと、ビアンカは
もう、しゃきっとしてよ、と俺の背を叩いた。
隣のベッドでは相変わらずパパスがいびきを掻いている。

まだ眠りから覚め切れないでいる頭を軽く振って、
俺はやっと背を伸ばしてビアンカの隣に立った。

部屋の中に据え付けられているタンスを開けてみると
中には見覚えのある小さな種と、
根元に装飾のついた羽根飾りのようなものが見つかった。
これはキメラの翼に間違いないだろう。

道具袋にしまい込み、音を立てないよう慎重に扉を開いて
俺とビアンカは廊下へと滑り出た。

予想以上に大きな音を立てて軋む階段や扉に
ヒヤヒヤしながらそろそろと忍び足で正面へ向かい
やっとの思いで宿屋を抜け出す。

神経を尖らせてゆっくりと扉を閉めると
背後でビアンカが大きく息を吐いた。
『ああ、緊張した!こっそり抜け出すなんて初めてだわ!ワクワクしちゃう』
けらけら笑いながら言い、俺の顔を見る。

青白く明るい月がその笑顔を照らしていた。
作り物のように滑らかな肌と糸のような細い髪の毛が光を反射して
神秘的なまでに美しく輝いている。

思わずドキッとした。
とかならラブストーリーとしては正解なのかもしれないけれど、
無邪気に紅潮した頬は子供のそれそのもので
子守、なんて言葉が俺の脳裏を過った。
(早く大人になってくれ)

町を出る前にビアンカの装備を確認する。
薄いワンピースの上に羽織った厚手のケープに
小さな果物ナイフと薄い木製の鍋のふた。
『キッチンから持ってきちゃった』とビアンカが言うとおりに、
それはとても装備とは呼べない品々だった。

幾ら弱いモンスター相手とはいえ
この装備ではやはり不安がある。
手持ちの小銭を確認するが、現段階では
ビアンカの装備を買い揃えるだけの金は、勿論持っていなかった。

仕方なくビアンカに小銭稼ぎを提案するが
『そんなことしてたら夜が明けちゃうわよ』
と一蹴される。

モンスターの危険さとビアンカの身が心配なことを説明し、
何とか理解を求めたが駄目だった。
大きな不安を抱えたまま、急かされるように俺は夜の町を出た。

世界はまさに表情を変えていた。
昼間は気持ち良いほどに青々と茂っていた木々が
夜の青さの中更に暗く影を落とし、
遠くには緩やかな低い山の陰が
夜空をも飲み込みそうに深く黒く浮かび上がっている。

そこらじゅうにモンスターの気配が立ち込め
ビアンカも流石に雰囲気に圧されたのか
押し黙ったまま俺の袖を掴んで歩を進める。

やっぱりレベルを上げていった方がいいと言おうと、
振り向いたところでビアンカがほう、と大きく息を吐いた。

『凄いわ。夜に外に出るなんて、本当に初めてだわ。ドキドキしちゃう』
キラキラと瞳を輝かせて、また辺りを見回す。
この子には不安とか緊張とか言うものがないんだろうか。
俺はがっかりしてまた前を向いた。

アルカパ周辺での初めてのモンスターは
二匹のでかい緑の芋虫だった。
なんだっけこいつ。グリーンワーム?
モンスターの名前っていまいち覚えてない。

戦闘態勢に入ると、ビアンカがいの一番に駆け出した。
手に持ったナイフで『えいっ』と掛け声も高らかに切りつけるが
芋虫は体を竦めただけで傷ひとつつかない。

『何このナイフ。切れ味が悪いわ』
怒ったようにナイフを振り回すビアンカに
芋虫が体当たりを食らわす。
大きな悲鳴を上げて、ビアンカが地面に転がった。

『いった~い!何すんのよこの芋虫!あったまきちゃう!』
口だけは達者だなあと、ビアンカを横目に俺も武器を叩きつけるが、
芋虫は一瞬ごろんと丸まるとすぐに体勢を立て直す。

うーん、やっぱり新しい武器が必要かも。面倒くせえなあ。
芋虫の体当たりを盾で防ぎながら俺は
どうやってビアンカを説得しようか思案していた。

実際のゲームじゃこんなこと考える必要もないのに。
あーマジ面倒臭え。

何度か攻防のやり取りがあり、芋虫は最終的に俺が仕留めた。
というかビアンカは役に立たなかった。
呪文でも覚えれば違うかもしれないけど
結局呪文ばっか使われてもすぐMP切れで役立たずに戻るのか。
あー、いばらの鞭が欲しい。くそ。

自分の攻撃が効かなかったことが余程不満なのか
ビアンカはふてくされるようにその場に座り込んでいた。
手を差し出すと少し間をおいてその手を握る。

『つまんないわ。あたしってそんなに弱いのかしら』
頬を膨らませるビアンカに、俺は再び説得を開始した。

経験をつめば強くなれること。
武器を変えれば攻撃も効くようになること。
そのためにまず町の周囲で
モンスターを狩っていれば一石二鳥なこと。

ビアンカは不承不承頷くと、
つまんないつまんないと言いながら俺の前に立って歩き出した。

町の周りを囲む森をぐるぐると歩きながら
さっきの芋虫や、角ウサギ
(ビアンカは攻撃するのを嫌がったが、
角で突かれたら怒ったようで執拗に叩いていた)、
ドラキーやおおきづちなんかを次々に倒していく。

何匹目かの芋虫を倒したところで
唐突にビアンカが『あっ!』と声を上げた。
『凄いわ。あたしにも呪文の才能があったみたい!』
ビアンカの言葉に思わずえ?と返す。

『パパとママは呪文を使えないから、
あたしもきっと無理だって思ってたのよ』
にこにこと嬉しそうに話すビアンカが
俺の当惑した顔を見てきょとんと瞳を丸くする。
『どうしたの?まさか呪文もまだ知らないの?』

首を振って一応の否定を示しながら
俺はビアンカにおめでとう、と言った。

この世界では呪文なんて、当たり前の概念なんだ。
それを改めて感じて、俺は少しだけ寂しくなった。
少女の感動は、俺の感じたそれとはまるで違うものだ。
俺の世界にはこんなものないのに。
どうかしてる。こんなことで。感傷的に過ぎる。

ビアンカは俺の言葉を聞くと安心したように、
楽しそうに何度かその言葉を呟いていた。

ビアンカもレベルが上がっている。
こういうところはゲーム通りで良かった。
子供の体力のままで冒険を進めるなんて、はっきり言って無理だ。

更に暫く戦闘を重ねていると、ビアンカが唐突に立ち止まり
『ねえ、もう疲れちゃった』
とだるそうに言った。

自分とビアンカの体力と、膨らんだゴールド袋を確認して
俺はじゃあ一度町に戻ろう、と言った。
レヌール城に行く、と言い張られるのを覚悟していたが
ビアンカは意外にもあっさりと頷いた。

商店を覗きたかったが、町に戻ると
ビアンカは真っ直ぐに宿へと戻った。
しきりに瞼をこすりながら『今日はもう休みましょう』と、
強引に俺を階段へ押しやると自分の寝室へ引っ込んで行った。

俺も仕方なく部屋へ戻り
いびきを掻くパパスの隣のベッドへ体を滑り込ます。
疲れていたのか、今度はすぐに睡魔がやってきて
俺は暗闇に目を閉じた。


隣のベッドで咳き込む声に、俺は目を覚ました。
パパスが苦しそうに体を折り、
咳をするたびに筋肉が苦しそうに歪む。
傍らにおかみが立って心配そうにそれを覗き込んでいる。

『パパス、その体で戻るのは無理だろう?治るまでここに居なさいよ』
心配そうに盥からタオルを絞ると、汗の浮いたパパスの額を拭う。
眉を寄せたまま『すまない』と言うと
パパスはおかみに促されて身を横たえた。
もう一度固く絞ったタオルを、おかみがパパスの額に乗せる。

『あら、サンちゃん。起こしちゃったかね』
俺に気付きおかみがパパスから視線を外す。
パパスは顔だけで俺を見ると、極まり悪そうに微笑んだ。
『どうやらダンカンの風邪を貰ってしまったらしい。情けないな』

大丈夫?と声を掛けるとパパスはまだ苦しそうに頷くと
『明日には治る』と言い切った。おかみが苦笑いを零す。
『幸い薬は余計にあるしね。
長引くことはないと思うけど、明日はどうかね』

食事を用意するよ、と部屋を出るおかみについて俺も部屋を出た。
背中からパパスが『この部屋には戻るなよ』とかすれた声で言う。
部屋も用意しないとね、とおかみがまた笑った。

簡単な朝食をいただきロビーに出ると
大きなソファの上でビアンカが欠伸をしていた。
俺に気付き慌てて口を閉じる。

『おはよう、サン。外に行くの?』
正面扉へ向かう俺にビアンカが声を掛ける。頷くと、
『元気なのね。あたし眠くってたまらないわ』
もういちど、今度は口元を手で覆いながら大きな欠伸をする。

すぐに戻る旨を伝えると
戻ったら一緒にお昼寝しましょ、とビアンカが眠そうに手を振った。

町は今日も賑やかだった。町の樽を調べながら
(やっと落ち着いて調べられたけど収穫はなかった。何てこった)
商店のほうへ向かう。

武器屋、防具屋の品揃えをそれぞれ覗き込んで
財布の中身をチェックする。
幸いある程度の装備は整えられそうだった。
ビアンカを連れて来れば良かったと少し後悔した。

確か盾は装備できた気がするんだけど。
うろ覚えだ。いばらの鞭は間違いないんだけどな。

唸りながら真剣にカウンターを覗き込む俺の姿が可笑しかったのか
武器屋の若い店主は俺を見て笑みを零した。

とりあえず使わなくなった木の棒と古い方の服を売り飛ばし
いばらの鞭と、防具屋に回ってうろこの盾を購入する。
迷った末に、浮いたお金で木の帽子も買っておいた。
ゴールド袋には残り数枚のコイン。薬草も買えない。

広場を覗くと今日も、子供たちは飽きもせず
猫だか虎だかを追い掛け回していた。

宿に戻ってビアンカと寝室に向かう。
新しく用意された部屋は、
前の部屋よりは手狭だったがよく整えられていた。
並んでひとつのベッドに横になると
すぐにビアンカは寝息を立て始めた。

向かい合うように寝ていると
ビアンカの顔立ちがすぐ傍に見て取れる。
自分もこんな頃があったんだろうかと、
俺は少しだけ自分の世界に、自分の両親に思いを馳せた。

これは夢なんだろうか。
クリアしたら覚めるんだろうか。
港からの道程で、サンタローズの洞窟で、そして昨夜の戦闘で、
魔物から受けた痛みは哀しいほどに現実だった。
もしかして俺はこの世界に絡め取られたまま、二度と現実には戻れずに。

恐ろしい考えを振り払って、俺は目を閉じ
意識的に暗闇に思考を投げ出した。


目が覚めるともうすっかり夜だった。
ビアンカは先に目を覚まし、既に装備を整えていた。
夕食をとりそこなった事に気づいたが、不思議と腹は減っていなかった。
夢なんだともう一度自分に言い聞かせる。

『起きたのね。今日こそお化け退治に行きましょ』
言いながら、ビアンカが俺の手を取って身を起こさせる。
感傷はまだ残っていたが、俺はビアンカに笑い返してその手に体を預けた。

昼間購入した装備をビアンカに見せる。
ナイフと鍋の蓋はキッチンに戻しておくようビアンカに言い、
真新しい棘の付いた鞭を手渡した。
ビアンカは嬉しそうに『ありがとう』と言い、
初めてのちゃんとした武器を物珍しそうに眺めている。

木の帽子は格好悪いから、と
ビアンカが身に付けるのを嫌がったので自分で被り、
うろこの盾をビアンカに渡した。
渋々それを左腕に装備する。

昨日と同じように慎重に注意を払って宿から抜け出すと、
夜の闇は昨日ほど恐ろしいものではなくなっていた。
月明りは煌々と世界を照らし、
草原の緑が濃い波を立てて風に靡いている。

北の城、と確認して俺とビアンカは、
北へ向かう細い道を辿っていった。

戦闘は随分と楽になった。
いばらの鞭を手にしたビアンカは、昨日とは見違えるほど強くなった。
初めは扱いにくそうにしていたが、
何度かの戦闘で慣れてくると一振りで複数のドラキーを仕留め、
嬉しそうににこにこと鞭を撫でている。

『サンの言ったとおりだったわ。強くなるって楽しいのね』
昨日は苦戦した芋虫の死骸を爪先で蹴りながら、
ビアンカは鼻歌さえ口ずさみそうな声色で俺に言った。
小銭を抜き取りながら返事をして、俺は顔を上げて空を仰いだ。

青黒い空の向こう側に、暗く城の輪郭が見える。
立ち上がって声を掛けると、ビアンカは
ぴょんと跳ねるようにして俺の後ろに付いた。

一歩ずつ、足を進めるごとに城の姿が大きくなっていく。
現れたモンスターはもう簡単に倒すことが出来たが、
べったりと張り付くようにそびえるレヌール城の影が、
何故だか恐怖さえ覚えるほどに不安を掻き立てていった。

ビアンカは相変わらず、そんな不安には無頓着なように
軽い足取りで草原を進んでいく。
これが子供なのか、と俺は羨ましくさえ思った。

『あら、子猫ちゃんだわ』
開け放たれた城門がすぐそこに見えるまで近付いた時、
ビアンカが唐突に声を出した。視線の先には、
町で子供たちが虐めていたのと同じような姿の動物が一匹、
こちらには気付かない様子で横切っていく。

『なんでこんな所に。あの子達町の外に捨てちゃったのかしら』
歩み寄ろうとするビアンカを制止して、俺はモンスターだよ、と囁いた。
相手はまだこちらには気付かない。このままやり過ごせるだろうか。

『モンスター?あの子が?』
俺に倣うように声を潜めてビアンカが言う。
頷いて、同じだけどあの猫じゃない、と俺は言った。
ビアンカの瞳が少しだけ真剣になる。
『じゃあ、あの子達モンスターの仲間を虐めてたの?』
もう一度頷いて、俺はモンスターに目をやった。
ビアンカは信じられないという面持ちで俺の顔とモンスターを見比べている。

ざわ、と風が抜けた瞬間。
通り過ぎかけていたモンスターがひくりと鼻先を震わし、
警戒するようにこちらを振り向いた。
その視線が俺の視線を捉え、剥き出した牙の隙間から
ぐるるる、とこちらにも聞こえるような威嚇の唸り声を上げる。

『猫ちゃん・・・』
呆然とその姿を見つめるビアンカの隣で、俺は武器を抜いて身構えた。
敵の視線が俺とビアンカを見比べ、無防備な少女の前で止まる。

「ビアンカ!」
敵が地面を蹴ると同時に俺は叫んだ。
びくりとビアンカが肩を揺らし、反射的に盾を目の前に掲げる。
敵の牙は盾に弾かれたが、ビアンカは衝撃で後ろに転び尻餅を付いた。
立て直す前の敵の背中に一撃を食らわす。
相手の背中から僅かに液体が飛び散り、武器を汚した。

ぐるる、とまた敵が唸った。
「ビアンカ!」
もう一度呼びかけると、ビアンカは
思い出したように立ち上がり、武器を手に取った。
その手に未だ迷いがあるのが解る。

モンスターはこちらを伺うように唸り声を上げている。
俺のつけた傷が痛むのか、時々僅かに表情をゆがめている。
後一撃あれば、多分倒せるだろう。

止めを刺そうと武器を構えた直後、
ビアンカが何ごとかを発したのが聞こえた。言葉が聞き取れない。

振り向こうとした時、辺りが赤い色に染まった。
眼前を横切って、真っ赤な炎の塊がモンスターに向かって行く。
ビアンカはさっきのままの姿勢でそれを見つめている。

ぼん、という炎のぶつかる音と、モンスターの悲鳴が響き、
余韻も残さずに闇に溶けて世界が沈黙した。

目の前がちかちかする。
目を開けても、ネオンのような緑色の炎の残像が
闇に慣れた眼球を追いかけて視界を濁らす。
何度か瞬きをしながら俺は、ビアンカの傍に歩み寄った。

『あたし、今・・・』
自分の両手を見下ろしながら、ぽつりとビアンカが呟く。
『・・・びっくりしたわ。呪文って凄いのね』

自らの放った炎に呆然としながら、ビアンカが言った。
少女の目に迷いはもうなかった。
見えるのは、純粋な感動と、おそらくは、快感。

まだぼんやりと自分の手を見下ろしているビアンカに、
俺は行こう、とだけ言って城の正門に向かって歩き出した。

何故か胸糞悪かった。
「猫ちゃん」を心配しながら、同じ生き物に手を挙げる。
結局自分もそうなのだ、それは理解しているつもりだけど。
同じ事をする、それを楽しむ、無邪気なビアンカの振る舞いが
今になって何故か哀しかった。

この世界では当たり前だ。
モンスターを殺すことも。自らの強さに酔うことも。
自分だってそうじゃないか。何の疑問も持たずに、異形と判断した生物を。

この世界では。この世界では。
それなら俺の世界はどうだ。
同じことをしていないと、言い切れるのか。
俺はどうだ。
何の迷いもない、それは正しい、本当にそうか。
それなら俺は、この世界では異形のものではないのか。

近付くごとに城が月を遮って、俺は暗闇に足を踏み込んでいく。


城門を抜けると、闇は一層濃くなった気がした。
ビアンカが『なんだか不気味ね・・・』と呟く。
低い塀に沿って正面に向かうと、扉の前には
風雨に曝され続けてきたのだろう幾つもの墓石が立ち並んでいた。
ビアンカが嫌そうに顔をしかめる。

『やだ。どうしてお城の入り口にこんなに沢山お墓があるの?』
問いの答えは持ち合わせていなかった。
わからない、と首を振って墓の間を抜けていく。
扉は開かない。

ビアンカが一緒に手をかけるが、幾ら押しても引いても扉は固く閉ざされたままだった。
正面を諦め、城の外壁に沿って裏手へ回る。
途中に転がっていた壷を調べると、薬草とキメラの翼があった。
拾い上げて更に城の裏へ向かう。

月灯りが見えてくるかと思ったが、
僅かの間に空は分厚く黒い雲で覆われていた。
今にも雨が降り出しそうに、空気が湿り気を帯びている。

城には裏口はなく長く高い上階までの螺旋階段があった。
金属で出来ているらしいそれはすっかり錆び付いて、
触れるとざらついた感触が掌に張り付く。

細い手摺意外に支えのない剥き出しの階段をゆっくりと慎重に上っていく。
ビアンカが手摺に当てたのと反対の手で俺の服を掴んだ。

時間をかけて一番上まで辿り着くと、
ぽっかりと口をあけた大きな入り口があった。
真っ暗なその中は、サンタローズの洞窟を彷彿とさせる。
躊躇いながらの口調でビアンカが『ねえ、先に行って?』と呟いた。
その声が微かに震えていて、俺はなんだかほっとした。

ビアンカの手を引いたまま暗闇に踏み出す。
瞬間、空間を震え上がらすような大きな雷の音が響いた。
反射的に耳を覆う間もなく、真後ろで鉄扉がけたたましい音を立てて閉じる。
ビアンカが小さく悲鳴を上げる。

まるで一瞬のうちに全てが起こり、聴力が奪われたかのような沈黙が戻った。
青紫色の雷光が、余韻を落とすかのように室内を一瞬だけ照らした。
小刻みに震えるビアンカの掌を感じて、俺はその小さな手を握り返す。

『ねえ・・・、閉じ込められちゃったの?』
動揺を隠さずにビアンカが泣きそうな声を出す。
雷の音が、応えるように天から唸り声をあげる。
途切れ途切れに照らされる部屋の中央には棺桶が並び、奥に階段が見えた。

階段を示すとビアンカは少し安心したように
『進んでいけば大丈夫よね・・・』と言った。
手は離さないまま棺桶の間を進む。

一つ一つのその箱からは、何者の気配も感じなかった。
試しにひとつ開けてみようとすると、
ビアンカが『やめてよ、サン』と気味悪そうに言った。

諦めて階段まで差し掛かったところで、ゴトン、と背後から、物音が響いた。

恐る恐る振り返る。
ゴトン、ゴトン、と音を立てて、
並べられた棺桶の蓋がひとつずつ床に滑り落ちていた。
なにあれ、とビアンカが悲鳴交じりの声を上げる。
ぬるりと、中から得体の知れない何かが、姿を現す。

不意にまた部屋が闇に包まれた。
ビアンカの悲鳴。
咄嗟に繋いでいた手に力を込めたが、それは否応なしに暗闇に引き剥がされた。
視界が戻る。開け放たれた棺桶。
ビアンカの姿はもうない。

大丈夫、何処に居るかはわかっている。
もしそれを知らなかったら俺は、この孤独な暗闇の中で途方に暮れるしかないだろう。
俺は身を返すと一気に階段を駆け下りた。

広い通路には鎧を纏った戦士の像が立ち並んでいる。
そのうち一体が微かに動いたような気がしたが、
とりあえずそれを無視して俺は奥の扉を開けた。

荒れた広いバルコニーに、小さな墓石がふたつだけ並んでいた。
入り口前にあった物と同じように風雨に削られ朽ちていたが、
崩れかけたそれらに掘り込まれた装飾が他のものと違うことは一目で解った。
黒い雲がまた紫色に光り、雷鳴が響く。

その音に混じって、小さく呻くか細い声が聞こえた。
手前の墓石を調べたが変化はない。

もうひとつに目を遣ると、もう一度少女の声がした。
それを手がかりにもうひとつの墓石を調べる。
動かせないんじゃないかと不安だったが、乗せられた石の蓋は、
俺が力を込めると簡単に台座から滑り落ちた。
同時に少女が大きな棺の中から顔を出す。

『ああ!苦しかったわ!もう、なにしてたのよ!遅いじゃない!』
転がるように暗い穴の中から這い出して、
ビアンカは息苦しそうに大きく息を吐いた。
手を取って立たせると、体に纏わり付いた砂埃をぱたぱたとはたく。

『もう・・・まあいいわ。探してくれてたのよね。早く行きましょ?』
ぎこちないままの笑顔で差し出されたビアンカの手を握って、
俺は少女の前に立って反対の扉に向かった。

中はかび臭い書庫だった。
幾つも並べられた本棚は何者かが掻き回した後のように乱れ、
分厚い本が何冊も床に散乱している。

今くぐった場所のほかには見渡す限り扉はなく、
一歩踏み込むごとに足元に舞い上がる細かなほこりが
大きな窓から瞬くように差し込む青紫色の光に照らし出されていく。

ぴかり、ともう一度雷が瞬いた時に、
ビアンカが小さく悲鳴をあげて俺の手を強く握った。

その瞬間まで気付かなかった。
窓の手前、白く輝く何かが、こちらに背を向けてふわりと佇んでいた。
視界の半分を遮る本棚を迂回して一歩、それに近付くと、
外光を反射した白いそれはゆっくりと、こちらを振り向いた。

ビアンカの手が緩むのを感じた。
暗闇に浮き上がるようにぼんやりと白いその女性の笑顔は、
あまりにも寂しそうで、悲しいほどに美しかった。

言葉が出なかった。
女性はじっと俺とビアンカを見つめると、そっと目を閉じる。
その睫毛の先から、透明な雫が一筋、頬を伝い落ちた気がした。

刹那、弾けるような雷鳴と、何かが床を引きずる嫌な音が背後に響いた。
ビアンカが悲鳴を上げる。
振り向くと、部屋の真ん中を占拠していた大きな本棚が、
何冊もの本をばたばたとこぼしながら床を滑り
壁に衝突して最後うつ伏せに倒れ込んだ。

空気が変わるのを感じてもう一度窓に向き直る。
女性の姿はなく、淀んだ夜空が怒りを表すかのようにびかりと光った。

『あの人、もしかして・・・』
無くなった本棚の下から現れた階下へと続く小さな階段を見下ろしながら、
俺はビアンカの冷たくなった指先をもう一度握りなおした。

階段を下りると、城内は更に傷み、
かびと埃の交じり合った湿っぽい匂いが強く鼻を突いた。
窓から差し込む雷光と出所の知れないぼんやりとした灯りで、
歩き進むことには不自由はなかった。

蝶番の壊れかけた扉の先には毛羽立って変色した絨毯が敷き詰められ、
中ほどには城内で初めての両開きの大きな扉が設えてあった。
この城がまだ幸せに平和に存在していた頃の、
きっと高貴な人間の場所だったんだろうとそれだけで解った。

そっと扉に触れる。
ささくれ立って面影さえ残さない上質な上紙が
俺の掌に抵抗もせずぱりぱりと剥がれ落ちた。

扉を開く。

やはりそこは王と、王妃の部屋だった。
天蓋の付いた大きなベッドが並び
扉の外れた背の高い衣装箱が置き去られたまま佇んでいる。

反対側のソファには、さっき見た女性が静かに俯いていた。
泣いているようにも見えたが、
顔を上げた女性の表情は書庫で見たそれよりもずっと穏やかだった。
その姿からは、不安も、恐怖も感じない。
女性は俺を見、ビアンカを見、少し躊躇うように口を開いた。

『わたしは、このレヌールの王妃、ソフィアと言います』
耳を澄まさないとすぐに薄闇に消えてしまいそうな、か細い声。
俺は歩を進めて、彼女の傍に立った。

『もう十数年も前、この城の者は皆、魔物に襲われ殺されてしまいました。
邪悪な者が世界中で、身分のある子供をさらっているとは聞いておりました。
でも、わたしくとエリック・・・王の間には、子供は居なかったのです。
どうしてあんなことに・・・』

声が震えているのが俺にもわかった。
王妃は気丈に笑顔を保っている。
その睫毛の先に一滴、涙が零れ落ちるのを拒むように震えている。

『今となってはもう、嘆いても仕方のないことです。
せめてわたくし達は静かに眠りたい・・・ですが今、
この城にはゴースト達が住み着き、城の皆を呪われた舞踏会に縛り付けています・・・。
どうか、どうかあのゴースト達を追い出してください・・・』

王妃のぼんやりと透き通った姿が
今にも消え入りそうにまた俯いた。


『王妃さま・・・かわいそう・・・』
部屋を出て扉を閉じると同時に、ビアンカが表情を曇らせて呟いた。
うん、と声に出して頷くと、俯いたままビアンカは小さく
『サン、頑張ろうね。どうせお化け退治に来たんだもの。いいよね』
言って、その小さな左手を胸の前で握り締めた。

がんばろう。そう、口の中だけで呟き返して
俺は廊下の向こう、来たのと反対側の扉を見据えた。


更に階段を降りると、フロアは今までに無い暗闇に支配されていた。
明らかに今までの城内とは異なった空気がフロア全体を支配している。
気味の悪い気配がそこかしこを行き来しているような、
異様な雰囲気を感じて俺は立ち止まった。

不意に雷光が窓を貫く。
轟音と共に照らし出された踊り場には
浮遊する得体の知れない何か(人魂、ってきっとこんな感じだろうな)が
幾つも連なって漂っていた。

窓から時折差し込む灯りを頼りに、人魂を避けて慎重に一歩ずつ進む。
人魂のような何かは、こちらに何かしてくるでもなく、
ただそこにふわふわと浮いていた。
降り積もった砂埃が足元でじゃり、と音を立てる度に
その何かが振り向いて襲い掛かってくるんじゃないかと
ありえない(だって俺は知っているのに)想像が脳を過り背筋が凍る。

やっと辿り着いた反対側の階段を駆け下りると、
そこはまたほのかに明かりが差す小さな部屋だった。
ふう、と緊張を解くように息をついてビアンカが
『あれ、なんだったのかしら。別に何かしてくる訳じゃないのね』
と可笑しそうに言った。

部屋を見回そうと振り返ったとき、不意に空気が揺れるのを感じた。
あ、と思わず声を上げる。
それに気付いたビアンカが俺の見るほうに顔を向け、笑顔を消した。

階段から少し離れた場所。
上品な、王の身なりをした男が、王妃と同じ
悲しいような穏やかな表情をこちらに向けていた。
その体はやはりうっすらと半透明に景色を通し、白く淡い光を纏っている。

声を掛けようと一歩近付こうとした時、
王はするりと地面をすべり片隅にある小さな扉の向こうへ消えていった。
ついて来なさい、とその背中が言っていたように感じた。

扉へ向かおうとする俺に、ビアンカは
『もう、今のってきっと王様よね?
王様も王妃様も、どうしてすぐに何か言わずに消えちゃうのかしら』
言って、少し困ったようにまたくすくすと笑った。

扉を開けると、大広間を見下ろす渡り廊下。
薄闇の中には音楽が鳴り響き、至る場所で至る姿の人間が手をとり踊っていた。
たった一枚の扉越しにも聞こえてこなかったその舞踏会は、
とても華やかとも楽しげとも言えない物だった。
音楽に合わせて聞こえるのはすすり泣く声と
それを囃し立てるしゃがれた不気味な声。

そろそろと足を踏みはずさないよう、気をつけて進みながら広間を見下ろす。
豪奢な装飾はどれも光を失い、悲しげにくるくると回る人々の影を微かに映している。
薄くどんよりとした空気が部屋中に漂っているようで、俺は息苦しさを感じた。

渡り廊下を抜け扉を開くと、奥の階段の向こう、
小さな扉を抜けていく王の後姿が見えた。
言葉の通り、扉を開閉することもなく
薄く透き通った体は薄い板を通り抜けて扉の向こうに消えていく。

追いかけて扉を開け放つと、城の外壁を回る細い通路だった。
俄かに強い風が吹きつけ、合わせるように雷鳴が唸り声を上げる。
角を曲がり覗き込んだ先、崩れ落ちた通路の手前に王は立ち止まりこちらを見ている。

『おお、ここまで来る勇気のあるものが居ったとは』
王様らしく蓄えた髭の奥で、目を細めながら王はか細い声で言う。
時折鳴り響く雷に掻き消えてしまうのではないかと、
俺は一歩距離を詰めて耳を澄ました。

『もう気付いて居ろうが、何年か前からこの城にゴースト達が住み着いてしまった。
私も妻も、城の皆も、穏やかに眠る事さえ叶わぬ・・・。
どうか願いじゃ。ゴースト達のボスを追い出してはくれぬか?』

>いいえ

を選びたい衝動に駆られたが、思案する一瞬の沈黙の隙にビアンカが
『もちろんよ!ねえ、サン!』と叫んだ。

勝手なことしてくれてんじゃねえよ。
思ったが相手はガキだと自分に言い聞かせ、なんとか拳を収めて俺は「はい」と頷いた。

『そうか、やってくれるか。そなた達はまことに勇気のある者達じゃ。』
王は満足げに双眸を崩し、深く頷く。
『ゴーストのボスは4階の玉座の間に居る。暗闇に閉ざされた階があったじゃろう?
扉の向こうの奥の階段を上がればすぐに辿り着けるじゃろう』
『サン、行きましょう!』
真後ろから急に裾を引かれて、俺はたたらを踏みながら
駆け出すビアンカを追って走り出した。

『ちょっと待ちなさい。まったく若者はせっかちでいかん』
奥の階段に差しかかろうとした刹那、先回りしていたのか王が俺達の前に立ちはだかった。
『そのまま行っても真っ暗で何も見えんだろう。
大広間を抜けて地下に降りれば台所に松明があったはずじゃ。それを使いなさい』
王は言うとゆっくりと俺達の背後の、下り階段を指さした。

『さあ、あっちじゃ。錆び付いていたドアも開くようにしておいたから、頼んだぞ』
王が言うと、ふうっ、と暖かな風が流れて、掻き消えるように王の姿が闇に溶けて消えた。
『王様も一応手伝ってくれるのね。行きましょ』
くるりと振り返って言うと、ビアンカは今度は俺の手を取って歩き出した。

広間を抜けて地下に降りる。
閉ざされた扉に手をかけると、一瞬暖かな空気が流れ
かちり、と微かな音を立てて扉が開いた。王の気配を感じたが、姿は見えない。

広間の奥、ロビーの隅の小さな階段を降りて、
俺達は何事も無く地下のフロアに足を下ろした。

気配を感じてキッチンを覗き込む。
透き通った体のコックが一人、中央の大きなテーブルに置かれた
テーブルからはみ出すほどに大きな皿に料理を盛り付けていた。

『松明はどこにあるのかしら・・・』
ビアンカが囁く。
そろりと一歩ずつキッチンに足を踏み入れるが、
コックはこちらには気付かない様子で忙しなく皿の周りを行き来しながら
色鮮やかに皿を料理で埋め続けていた。
時折『もうやめてください』とか『わかってます、わかってますよ』とか
『助けて・・・』とか、姿の見えぬ何かに向かって呟き続けている。

コックの後ろを抜けて奥の物置き場を探る。
手を分けて木箱や壷の中を探していると
壷の底にぽつんと置かれた小さな松明を見つけた。
木の棒に何か模様が織り込まれた布が巻きつけられ、
銀の取っ手と火種らしい金具が設えられている。
『これで暗い部屋も大丈夫ね、良かったわ』
物珍しそうに松明を手にとってビアンカが言った。

音を立てないようにまたこっそりとコックの背後を階段まで戻り、
広間へ続く階段を駆け上がる。

『ねえ、早く行きましょうよ』
そう言って袖を引くビアンカに頷いて、俺達はまた来た道を戻った。
大広間では相変わらず悲しげなダンスが繰り広げられている。
囃し立てるゴースト達を振り落とそうかと思ったが
フロアの中腹辺り、俺の体では手の届かない位置に浮遊している。

諦めて通路に戻ろうとしたとき、俺達が今までいたその場所に、
その瞬間まで居なかった、白い蝋燭がぽつんと佇んでいた。
丁度俺達の目の高さ。
ちらつくように揺れる点いたままの炎があたりをほんのりと照らしている。

驚いて立ちすくむ俺達の目の前でそれはゆっくりと向きを変えた。
そして大きく開いた口でにたりと笑うと、聞き取れない声で何かを発した。

ごう、と空気を裂いて赤い小さな塊が俺の視界を塞いだ。咄嗟に両手を掲げる。
『サン!』
轟音、熱と耳鳴り。
その向こうから微かにビアンカの声が聞こえた。
呪文を食らったんだとやっと気付く。肌の表面がびりびりと痛む。熱い。

『なにすんのよ!こいつ!』
叫びながらビアンカが鞭を振るうのが、下ろしかけた両腕の隙間から見えた。
敵は床に叩きつけられると、またよろよろと立ち上がり
くすぶった頭上の炎を気にするようにふらりと視線を上げた。
裂けた口の隙間からだらりと赤い舌が覗いている。

痛みを堪えて俺は、鞭を引き寄せるビアンカの脇をすり抜け
まだふらつく敵の顔面に武器を振り下ろした。
不意を突かれた敵はギャア、と叫び声を上げて床に転がり、
ごろりと半回転して動かなくなった。

『サン、大丈夫!?』
思わず尻をついた俺に駆け寄って、ビアンカが心配そうにしゃがみ込む。
両腕はまだひりひりしたが、熱と衝撃で受けた鋭い痛みはゆっくりと引いていた。
「大丈夫」と答えるとまだ不安そうにビアンカが俺の腕を覗き込む。
薄暗く良く見えないが、おそらく真っ赤に腫れているだろう事は判った。

『どうしよう、冷やさなきゃ。
それかどこかで少し休みましょ?お城だって寝室くらいはあるでしょ』
ビアンカの言葉でふと思い出す。
確かここには宿屋があった。
場外に投げ出されるのは少し面倒だったが、宿に泊まれば傷は回復するだろうし
魔力の回復もしておきたかった。

幸い足にダメージは無かった。
立ち上がると俺は「あっちに部屋が」とだけ言って今来たロビーへと歩き出した。

出来ればもう敵には会いたくない。
祈るような気持ちで俺はゆっくりとロビーのドアを開ける。
祈りは届かなかった。
ロビーの中央、丁度俺達の目の高さに、赤茶色い
絵に書いたような“お化け”の形をしたモンスターが、ゆらゆらと浮遊していた。
それは俺達の姿を確認すると、にたりと舌を出して両腕を振り上げた。

『なんなのよ!もう!』
怒ったようにビアンカが鞭を振るう。
追い討ちをかけて俺が武器を振ると、あっさりとモンスターは沈黙した。
半透明に横たわる死骸を跨いで俺達はロビーに足を踏み込む。
案の定、階段の脇にさっきは気がつかなかった扉があった。
開いて中に入ると、カウンターが据え付けてあり
その向こうには炎のような人魂のようなものが揺れている。

カウンター越しに覗き込むと?人魂は『なんだい客かい?』と面倒くさそうに言い、
『奥のベッドが空いてるから、勝手に休みな』と吐き捨てるように言った。

言葉に従って奥を覗き込むと、意外にも
真新しげな白いシーツの掛けられたベッドが二台、並んで置いてある。
『なんだか気持ち悪いけど、いいわ。サン、少しでも休まなきゃ』
聞き終わらないうちに俺は手前のベッドに倒れ込んだ。
ビアンカの心配そうな気配が通気を伝って俺にも感じられたが、答える余裕もなかった。。

呪文のダメージは、思ったよりも深かった。
本当は体力は、まだそれなりに動けるだけを体に残してはいた。
けれど呪文を放たれた時の空気の粘つくような嫌な感じと
目の前に迫ってくる真っ赤な炎の塊の残像が、俺の精神的な
なにか軸のようなものまで焦がしていったような気がした。

恐怖。

それが俺の心に芽生えたのは決してこれが初めてではなかったが。
得も知れない理解の届かない「呪文」というものの恐ろしさを
初めて身に染みて理解したような気がした。

こんなものが当たり前の世界。こんなものが。
息を止めて目を閉じて、俺は只暗闇に逃げ込もうとしていた。
目を閉じて耳を塞いで、自分の中に潜ることが、この世界で唯一の逃げ道になっていた。

ビアンカは心配そうに暫くベッドの周りを歩き回っていたが、
やがて諦めたようにもう一つのベッドに潜り込む音だけが聞こえた。


インターミッション/夢


目を開けると俺は城の外に立っていた。
予想通りだったので動揺はしなかったが、ビアンカは
不可思議そうに辺りを見回して『あら?』と呟いた。
入るときには気付かなかった、城門の内側すぐの小さな観賞用の池のほとりに、
皺だらけで頭の禿げ上がった老人が一人佇み、
俺達はその老人が焚いている小さな焚き火のそばにいた。

『おや、目が覚めたかね』
老人が俺の視線に気付き、しわがれた声で言う。

傷んだはずの腕の痛みは、すっかりと消えてなくなっていた。
触れてみるとすべすべときれいな子供の肌。
疲労していた体も、心も。驚くほどきれいに元に戻っている。
恐怖さえ、僅かな休憩でなかった物のように俺の中から消えている。
そのほとんど気分のいい感覚に、逆に俺は少し気味悪さを覚えた。

寝てる間に変な薬でも飲まされてるんじゃないか。
そんな薬がこの世界にあるのかも判らないけれど。
老人は伺うように俺とビアンカを交互に見、
『この城には幽霊が出るそうじゃから、気をつけなされよ』
言ってほっほっほ、と笑った。

『自分のほうが幽霊みたいよね』
とビアンカが俺の耳元で囁いて、俺は思わず笑いそうになった。
ここを後数歩離れた時の、ビアンカの反応が楽しみだ。

期待通りのビアンカの反応をひとしきり(勿論心の中で)笑った後、
俺達はもう一度城に足を踏み入れた。今度は簡単だった。
王の力か、あれだけ固く閉ざされていた正面扉は、驚くほどあっさりとその両の手を解いた。
広間を抜けて真っ直ぐに、俺達は玉座の間を目指した。

出くわすモンスターは敵ではなかった。
呪文を唱える隙も与えず叩き落す。
例え呪文を食らったとしても、覚悟をしていればそれはもう恐ろしいものではなかった。
取り乱すこともなかった。
あの僅かな眠りの中で。何が自分を変えたのか、自分にも測りかねていた。

暗闇に松明の明かりを放って、とうとう俺とビアンカは玉座の間に立っていた。
真っ赤な絨毯と黄金色に装飾された玉座の中央に、
ゴーストの親玉はゆったりと深く腰掛け、こちらを見て微笑んだ。
『ほう・・・、ここまで来るとは。大した餓鬼共だ』
ちらちらと揺れる松明の炎が、浅黒いボスの表情をより不気味に演出している気がした。
つり上がった細い両の目を更に細め、舐めるようにこちらの表情を伺っているのが判る。
時折、暗い色のローブからはみ出した湿った枯れ枝のような細い指で、
持て余すように金の肘掛をかちりと鳴らす。
耳元まで避けた口をまた開き、愉快そうにボスはヒヒヒ、と笑い声を上げた。
『ここまで来た褒美に、美味い料理を振舞ってやろうじゃないか。
さあ、こっちに来なさい』
ビアンカは黙りこくり、視線をボスに釘付けたまま首を横に振る。
親玉は目を見開き、威圧を込めた声色で『まさか俺様が怖いのかな?』と言った。
『あんたなんかに従わないわ』
ビアンカがはっきりした声で言う。
ボスはまたヒィヒヒ、と嫌な笑い声を立てると、馬鹿な餓鬼だ、と呟いた。

刹那、世界がぐらりと傾いた。
覚悟はしていた筈なのに、咄嗟の出来事に一瞬、事態の理解が遅れる。
床が抜けたのだと、ボスの足元を通過しながらやっと気付く。
『貴様らに食わせる料理なぞないわ。貴様らは材料―――』

語尾が遠のき、今まで立っていた高さが頭上に消えていく。そして音楽。
物の数秒で大広間を通過し、俺は仄暗い小部屋に尻から着地した。
直後に何かが潰れるような衝撃音と、ビアンカの
キャアとヒャアの間のような悲鳴が耳に届く。

左手に何か柔らかいものがべっとりと張り付いて、俺は手元を見下ろした。
半分腐った果物や、野菜や肉が足元に敷き詰められていて、
それが落下の衝撃を多少和らげてくれたのだろう、
俺の体の下で可哀相なほど無残に潰れ、飛び散っている。
その下には良く割れなかったものだ、白い陶器のような床が見え隠れする。
『そ、そんな・・・』
すぐ横で男の声がして俺は振り向いた。
『子供を料理するなんて・・・!私にはできない・・・』
泣き顔のコックが俺の方を見て首を振っていた。
直後、ばちん、と何かが弾ける音がして、コックがひいい、と悲鳴を上げる。

『サン、今のうちに行きましょうよ!』
物語の流れを待っていた俺にビアンカが囁いた。
思わずえ?と間抜けな言葉を返す。
『お化けの親分を倒さなきゃ!なにぐずぐずしてるの?』
ビアンカはもう片足を皿の縁にかけ、今にも飛び降りんという姿勢で俺の腕を引く。
というか、物語を外れるという発想を今まで考えなかったことに、今更ながらに気付いた。
それよりも物語の中のキャラクターであるビアンカが、そんな提案をしていいんだろうか。

呆気に取られている俺に
ビアンカはじれったそうに『なにしてるの?』と声を荒げた。
ああ、うん、と曖昧な返事を返し、どうしようかと思案した刹那
がくん、と足元が揺れた。バランスを崩しかけたビアンカが
悲鳴を上げながら俺の腕にしがみつく。

ぎしぎしと金属が擦れあう音を立てながら、足元の皿が、
正確には皿を載せたゴンドラのようなものが、
ゆっくりとテーブルを離れて持ち上がっていく。
『もう、間に合わなかったじゃない。どうするのよ』
苛立ちを隠さずにビアンカが言った。
ある意味物語の通りなんだけど。俺はちょっと失敗したなあと思っていた。
物語を外れたらどうなるのか。そんなこと考えても見なかった。
外れるといっても、お化け退治には違いないからほんの僅かな相違だけれど、それでも。
もしかしたらゲームとは違う、俺だけのストーリーを描けるんだろうか。
ゆっくりと下に流れていくキッチンの壁を見ながら、
俺は言い知れぬ期待が胸に湧き上がるのを感じていた。

頭の中はこの先のストーリーで一杯だった。
浮ついた気持ちのまま三匹の蝋燭を叩き伏せる。
呪文で食らったダメージを薬草で癒し、俺達は再び玉座のフロアへ向かった。
暗闇で松明に火を点しながら、ボス戦に向けて息を整える。

思えば、初めてのボス戦だ。
初めての戦闘・・・三匹のスライムの時に比べれば
多少は経験も積んだし、不安も少ない。
先への期待で揺らぐ集中力を必死で諌めながら、俺は最後のフロアに足を踏み入れた。

先ほどボスが鎮座していた玉座に、今はもう誰もいなかった。
きい、と蝶番が軋む音を立てて、玉座と反対側にある小さな扉が閉まった。
『サン・・・あっち』
ビアンカが声を震わせる。
俺の手を握った指先が震えているのが伝わってくる。
耳の奥で心臓が拍を早め、鼓動が神経を伝い脳まで脈打つようだ。

小さな扉を開けると、冷たい風と雷光が俺を出迎えた。
ごごう、と大きな音を立てて天が震える。
ボスは小狭いテラスにもたれ掛かるようにして振り向くと、
『おやあ、奴らはお前達を食い損なったようだな』
待ち構えていたように俺達を見て言った。
風が唸り、松明の明かりが不意に掻き消える。

『ふん、仕方ない・・・俺様が直々に料理してくれるか』
にやあ、と開いた口元から真っ赤な舌が覗いている。
俺はビアンカにちらりと目配せすると、自分の武器を腰紐から引き抜いた。

ざらりと音を立てて、ボスの引きずるほどに長いローブが揺らいだ。
覆い被さるように高く掲げられた両の手から閃光が走る。
ヒィヒヒヒ、とボスの高笑いが響いた刹那、目の前を炎が走った。
ビアンカが悲鳴を上げる。
『人間の餓鬼共が!俺様に勝てると思うなァ』
ボスが吼えるのに呼応するように、天上か雷鳴が降り注ぐ。

ビアンカは怯まなかった。
きっ、と意志の強い瞳でボスを睨み付けると、『なめんじゃないわよっ』と鞭を翻す。
負けじと俺も手にした武器を叩き付けた。鈍い音がしてボスの体がよろめく。
『ヒィヒヒ、やってくれる』
再度呪文の詠唱に入るボスより僅かに早く、ビアンカが叫んだ。
炎の塊が空を切り、ボスの顔面に吸い込まれる。
ギャア、と嫌な悲鳴が雷鳴に掻き消える。ボスはまだ倒れない。
ローブの奥まで切り裂くように俺は力を込めて武器を振り下ろすが、
致命傷を与える前にその腕に振り払われた。
間髪いれず追ってくる一撃を避けきれず、俺は固いタイル張りの床に叩きつけられる。
『この餓鬼共がァ!やってくれるじゃねえか!』
ボスがもう一度何か唱えた。
今度はテラス一面を覆うような大きな炎が、俺達を包む。

がくん、と、膝が落ちるのが自分でもわかった。
辺りには埃の焦げたようなすすけた匂いが立ち込めている。
俺より少し前方に、一瞬尻を着いたビアンカが身を起こしまた駆け出すのが見えた。
反射的に俺は呪文を唱える。
ビアンカが振り返り『ありがと』と言った。
攻撃呪文のように目に見える効果がわからないから心配だったが、
回復呪文はちゃんとその効果を発揮したようだ。
ビアンカの持つ鞭が天に大きく翻る。

振り下ろされるボスの鋭い爪先をひらりとかわすビアンカの姿を確認しながら、
俺はもう一度呪文を唱えた。
体の痛みがすう、と引き、俺は武器を取り立ち上がる。


『餓鬼共が!餓鬼共がァ!』
ボスの余裕が徐々に失われていくのが、手に取るように解った。
ゴーストのボスは決して強い敵ではなかった。
その表情に不安が過り、次第に攻撃も精彩を欠いていく。
ビアンカの放った炎がもう一度ボスの体にぶつかり、
とうとう尻をついたボスの眼前に俺は
止めを刺そうと自分の武器を振り上げた。

『ヒイィィ!わかった!もうやめてくれェ!』
武器を振り上げた姿勢のまま、俺は動きを止めた。
ビアンカが『なにしてるのよ!』と背後から叫ぶ。

顔の前に両手を掲げ、顔を伏せたままボスは
『もうこの城からは出て行く!だから助けてくれェ』と
まるで情けない声で懇願の悲鳴を上げている。
顔周りが焼け落ち、ところどころ切り裂かれたローブが痛々しげにボスの体を覆っていた。
俺は掲げていた武器を下ろす。
『サン、目的を忘れたの?そんなやつ、やっちゃいなさいよ』
ビアンカが明らかに怒った声で言った。ボスが再びヒィ、と泣いた。

『頼むから見逃してくれよ・・・。約束する、もう俺達ァこの城からは出て行くからよォ』
ぼろぼろのローブからはみ出た両腕を必死で振りながら、
ボスは俺とビアンカに交互に泣きついた。
ビアンカはそれを半ば呆れたような目で見下ろしている。

『あんた、自分のしたことがわかってるの?今更そんな事言われたって許せないわよ!』
武器を振おうとするビアンカにボスは悪かったよ!と叫んだ。
『俺達ァ楽しく暮らしたかっただけなんだ。
魔界の仲間にも、幽霊の仲間にも疎ましがられちまってよォ』
当然だわ、と冷たく言うビアンカにボスは情けない声で『この城は誰も寄ってこないしよ、
王様気分でちょっと楽しみたかっただけなんだ』と言った。

『頼むよ、もう悪さはしねえ。ここから出て行けばそれでいいだろう?』
『どうする?サン』
顔を上げたビアンカに、俺は逃がしてやろう、と言った。
『本気なの?信じられないわ!サンってお人好しよね』
今度は俺に向かって呆れた表情を作り、
仕方なさげにビアンカは腰に手を当てると、ボスの方に向き直った。
『行きなさいよ』
渋々と言った声色に、ボスはへっへっへ、と笑い
『ありがとうよ。あんた立派な大人になるぜ』言いながら立ち上がると、
長いローブをばさりと翻した。

瞬きする間もなく、ボスの姿は消えていた。
始めからこうやって逃げればよかったのに。
と思ったけれど、ゲームの世界のルールなんだろうなとぼんやりと俺は納得した。

いつの間にかあれだけ煩く鳴き続けていた雷は止んでいた。
城を包んでいた重く息苦しい空気が和らいで、月明りが切れ切れの雲間から世界を照らし始めていた。
ゆらりとあの暖かい空気が俺達の周りを包んでいた。
王の気配を感じ見上げると、薄い雲を払って顔を出した月と、
穏やかに微笑む王と王妃の姿が見えた。
二人はゆっくりと空を歩き、それぞれに俺とビアンカの手を取った。

浮遊。

世界の理に囚われないその二人の影響か
俺達の足は地面を離れ、ふわりと空中に浮いていた。
手を引かれ、王と王妃の眠るべきバルコニーへと誘われる。

墓石の前に足を着くと、王は俺の手を離し『よくやってくれた。礼を言う』と微笑んだ。
『本当に、感謝します。これで穏やかに眠れそうです』
王妃も王と良く似た笑顔を浮かべ、俺とビアンカの瞳を目を細めて見詰めている。
『城内の者達も、眠りについたようだ。さあ、おまえ。我々も行こうか』
『ええ、あなた』

淡く輝いていた二人の体が、一瞬、更に暖かな輝きを放った。
王が王妃の肩を抱き、王妃は寄り添うようにその腕に体を預ける。
『そなた達のことはきっと忘れまい。本当にありがとう』
嬉しそうに微笑む王妃の笑顔と、王の声が、白い光に包まれていく。
そして少しの余韻を残して、夜の闇に消えた。
最後に墓石が惜しむようにこつり、と音を立てた気がした。

『これで二人は幸せに眠れるのね』
ぼんやりと、今見た光景を刻み付けるように目を閉じて、ビアンカが言った。
ことりと、もう一度墓石が鳴いた。
『・・・何かしら。なにかあるわ』
目を開けたビアンカが墓石を見下ろす。
子供の掌よりも大きな、月光に金色に輝く大きな宝玉が、
王の墓の前に供えるように置かれていた。
ビアンカがそれを手に取り『お礼かしら』と笑った。

手を繋いで夜の道を戻る。
城内にあれだけいた幽霊や魔物は、すっかりとその姿を消していた。
城門をくぐり草原へ出る。
ざわりと風に靡く草花は、入る前のそれと同じ筈なのに、何故か何処か違うもののように思えた。
魔物の気配ももうしない。モンスターも寝るのかしら、とビアンカが言う。
不意にビアンカが俺の手を離し立ち止まった。歩を止め振り向くと、草原の真ん中。
城門の見える位置でビアンカがしゃがみ込んでいる。
『あたし、今日沢山モンスターを殺したわ』
一歩、少女の下へ踏み出しかけた俺に、ビアンカは呟いた。
少女の見下ろす地面に、つい数時間前戦った、小さなモンスターの爪あとがくっきりと残されていた。
『猫ちゃん・・・』
その両の手を顔の前で組み、ビアンカは目を閉じた。
その整った顔立ちの向こうに、快感や優越はもう、見えなかった。

俺は今後にしたばかりの大きな城を見上げた。
暗闇の象徴のように感じたその城は今は、月明りの中、
世界を見守るように、静かに穏やかに佇んでいる。

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